偽りのテンペスト
1954年9月26日夕刻より急激に発達した台風十五号の狂風怒濤の最中、函館港内の青函連絡船は次々と沈んだ。
しかし、その陰には命の潰える最期の時まで船を動かし続けた職員達の奮闘があったことを忘れてはならないだろう。
■秋の嵐
1954年9月26日、この日の津軽海峡は台風15号の影響を受け早朝から時化模様であった。
午前8時、函館海洋気象台は風雨注意報を発表。
午前9時頃、台風は山陰地方を通り日本海へと抜け、速度を110km/hとスピードを上げ日本海沿いに北上しつつあった。
午前7時10分、青森3岸を下り31便として出航した第11青函丸は台風接近による強風により難航しながらも11時50
分、定刻より10分遅れで函館2岸に着岸。折り返し1202便として出航するべくすぐに貨車、荷物車、寝台車を積み込み
にかかった。
この時期は北海道のイモや昆布などの出荷時期であり青森方から来る船には空車が多かったが、北海道から出る貨車
はほとんどに荷が積載されていた。旅客は夏の繁忙期も過ぎていたが貨物のシーズンはまさにこれからであった。
それだけにこの時期に1便でも運休すれば貨車は滞留し、大変な事になるのは目に見えていることであった。しかも12
02便は米軍輸送船のため米軍指令用の寝台車1両、荷物車1両も積むのである。 出航に対するプレッシャーは大きい
が、このまま出航してもかなり難航するのは午前中の難航で既に分かっていたことであった。
今朝の31便でも風雨に影響を受けにくい下り便ですら強風に翻弄されて遅れを出している。風の影響をまともに受ける
上り便ではさらに激しくなるだろう。
そんな中、
「『気象台の発表では昼過ぎから台風の接近でさらに風浪強くなり、津軽海峡全域が暴風雨になる』とのことです。」
気象報告であった。
この報告を受け、船長はかなり逡巡したものの、気象情報から判断すれば17時過ぎ頃までは暴風圏内に入ることはない
だろうし、もし進路が変化したとしても平舘海峡から陸奥湾に入ってしまえば台風の影響は多少避けられるという考えと、
米軍輸送という任務に対する多少の気負いもあったに違いない。
先行する54便(第6青函丸)が12時30分に有川を定時出航したとの連絡も入ってきた。
“今出てしまえば台風到着前に青森に着けるだろう。 …54便も出たのだから”
13時20分、第11青函丸は1202便として貨車42両(満載)、旅客176名(米軍兵含む)を積載し定刻に青森へ向けて
函館2岸を出航した。
出港直後、青森県大間の気象情報を入手した所、東の風22m/s。予想以上に早く台風が近づいているかのような吹き
具合であった。 続いて入ってきた62便として先行している渡島丸の無線電話では「風速東25m、波8、うねり6、動揺
22度 進路南東 難航中」。 渡島丸も今の時点でかなり難航しているようであった。
これから海峡に向かおうとすればさらに厳しい暴風雨に晒されることになるのは想像に難くない。
13時53分、函館山裏の穴間沖で函館港に引き返すことを船長は決断した。
このまま進むことは不可能であるし、ましてやこのボロ船だ、貨車を満載してこの激浪にはとても耐えられないだろう。それ
なら一旦引き返すべきだとの判断であった。
14時04分、指令より「乗客を後続の第4便洞爺丸に移乗させるため函館2岸に着岸するように」との連絡を受けたため、
14時48分函館2岸(現在摩周丸が係留されている岸壁)に着岸。乗客176名を洞爺丸に移乗させ、米軍用の寝台車1両、
荷物車1両を一旦陸揚げし、そのかわりに木材等貨車5両を積み込んだ。これで合計45両。満載状態であった。
16時02分、テケミのため沖出しを行うことにし、錨地へ向かい再び2岸を離岸した。
当初、港内にて投錨仮泊する予定であったが、気象台の警報では東−北西の風となっていたため港内に投錨した場合、走錨
による接触の危険性があるものと判断し、港外へ出ることにした。
16時25分、函館港西防波堤より真方位245度、3218mの地点に投錨仮泊。
…確かに走錨による接触を考えれば港外へ仮泊した方がいいかも知れないが、その時なぜ、波浪から守られるより安全な港内での
仮泊をしなかったのか。
…遡ること4ヶ月前。
1954年5月9日。
前日の8日9時に東シナ海に発生し、発達した低気圧により20年降りの大荒れの天候であった。
本州東岸沿いの寒冷前線、本州中部に延びる閉塞前線による暴風雨雪の為津軽海峡は大荒れであった。この低気圧は道東方面
に大きな被害を残し、死者28名、行方不明327名、サケマス出漁中の漁船など31隻が沈没という北海道では戦後最大の被害を
もたらした低気圧であった。第11青函丸はこの時も31便−1202便−33便と15号台風の時と同じダイヤで運行しており20時
50分、33便として青森を出航した。 しかし、夜半に掛けて風雨は強くなりだしており、既に摩周、大雪、洞爺の各船がテケミ
(”天候険悪出航見合わせ”の略号)であった。特に洞爺丸は4便(洞爺丸台風の時の便と同じ便である)として青森2岸に19時20
分に到着後、早々とテケミで折り返し便を運休している。
この時第11青函丸は何とか函館にたどり着いたものの、函館桟橋はすでにテケミで運休している大雪丸(9便)、石狩丸(1201便)
が使っており、午前1時10分函館港外に投錨仮泊し天候の回復を待つことにした。
5月10日1時40分、先に青森より到着し第11青函丸と同様に函館港外で仮泊していた第8青函丸が西北西35m/sの突風に錨を
引きずったまま流され始め、付近に停泊中の第11青函丸に衝突したのだ。両船とも戦中に造られた戦標船といわれる急造船。
「船体3年ボイラー1年」と言われるぐらいのボロ船であった。多少の手入れはしてあってもやはりそのダメージは小さくなかったようで
翌日から港内で修理を行うことになった。
そのせいかどうかは別の話だが、この年の6月から8月まで第11青函丸は函館ドックで二重底工事を施し、青函航路を暫く離れることになったのだった。
この時の教訓が15号台風の時の港外仮泊に繋がったのであろうか。
当時の気象警報は「東のち北西の風 強し」となっており、北西の風になった場合湾口から湾内に向かって直に風が吹き付ける形
となり、高波が港内に押し寄せる恐れがあったため、その場合港内錨泊の場合走錨による接触の危険性が予想されたことから港外
への沖出しを決断したものと思われる。
この時点で港外へ沖出しを行っていた連絡船は石狩丸、北見丸、第11青函丸であった。
第11青函丸の出航後、この日の午前10時から乗客を乗せたまま沖出しをしていた大雪丸も16時55分に入れ違う形で2岸に接岸、
乗客・貨車を陸揚げし、乗務員を交代した。 6時間に渡る悪天候下の沖出しで乗客にも乗務員にも疲労の色がいっぱいであった。
しかし、交代した乗務員に待つ過酷な運命をこの時、誰も知る由はなかった。
■悪魔の目
17時15分頃から雨が止み、風が凪ぎだし西の空が明るくなりだした。
15m前後の強い風が吹き続けていた函館港に一瞬青空の隙間から夕陽が差してきた。この時、風速は5−6m/sにまで凪いでおり
依然波は高かったものの、この晴れ間を見た者の誰もが上空の晴れ間を台風の目と思ったに違いない。
この一瞬の晴れ間を逃さず17時25分、函館2岸から大雪丸が出航した。
1岸の洞爺丸は入ってきたばかりの急行列車の乗客を乗船させる手続きに入っていた。おそらくこの晴れ間を見て出航させる腹づもり
であったのだろう。第11青函丸は投錨位置報と業務報を打電し、そのままの位置で錨泊していた。
この時の風が閉塞前線通過による「偽りの晴れ間」だと気付いた者は誰一人いなかった。
台風は、秋田沖で急速に速度を落とし、まるで獲物を狙う狼のように牙を剥いて待ちかまえていたのである。
18時頃
青空の覗いていた空が急速に暗くなり、突風が吹きはじめた。 それまでの20m前後の風とはあきらかに違う風であった。
風速計の針はたちまち30m近くまで振れてゆき再び波も波頭を崩してうねりだした。
港外に錨泊していた第11青函丸は南南西からの突風に流される形でズルズルと錨を引きずったまま流され始めた(走錨)。
これに対して機関を稼働させ波に対して拮抗するよう船首を向けるように操船をし続けた。
しかし怒濤のように押し寄せる巨浪に2850トンの連絡船は木の葉のように翻弄され、波に飲み込まれ、船首が持ち上がったかと
思う間もなく再び波間に叩きつけられる。 激しいピッチングに加え、左右の動揺を示すローリングは船底の赤い塗料が見える30度
近くまで達した。 船体が右舷、左舷にローリングする度に煙突から波飛沫が入り込みその周辺から蒸気が立ち上るまでになっていた。
さらに船体後部の貨車積み込みの開口部からは波が入ってきて車輌甲板を洗っていく。 その中、各部署では波に洗われながら
車輌緊締具の増し締めを行い、錨鎖の監視を続けた。
19時30分頃
車輌後半開口部から侵入してきた海水の勢いはますます強くなり車輌甲板に滞留し始めた。 その海水が開口蓋の隙間から浸水が
始まり機関室、缶室にも入ってきた。 甲板部では浸水を防ぐべく密閉作業を進めたが船体の激しい動揺と開口部から打ち寄せる
海水に阻まれ作業は危険と困難の極みにあった。
19時53分頃
浸水はますます激しくなり各所排水ポンプを稼働して排水作業に当たらせたが、ついに海水をかぶった発電機が短絡(ショート)し、
船内の電気が消えた。主機が停まるのももはや時間の問題であった。
同時刻
国鉄函館海岸局から各船宛の無線電報438号が発信された。
「53便十勝丸、葛登支灯台ヨリ真方位62度、3.3浬ニ投錨テケミ。遅レ4便洞爺丸19時1分、函館港防波堤灯台より300度
8.5ケーブルに投錨 テケミ」
この電報は全連絡船がテケミに入ったことを報せるものとなった。
こういった一斉電報の場合受信した船は直ちに受信証(R)を海岸局に返信する。返答のない船には個別に呼び出しを行い受信の有無
を確認する事になっていた。
しかし、電気が止まった第11青函丸には送受信する術はなかった。
19時57分
無線機をバッテリー稼働に切り替え、非常灯の明かりの中、通信士は海岸局からの呼び出しを受信した。
しかし、今は停電で受信できるだけの余裕もない。海岸局にはヒアリングで「停電につき後で受ける」とだけ発信した。
これが公式記録に残っている第11青函丸の最後の通信となった。
20時頃
波浪はなおも高く第11青函丸を襲い続ける。発電機が止まり操船能力も失って今はただ流されるだけの船となった第11青函丸に
抗う術はなく来る巨浪にただ翻弄されるだけであった。
その時、ひとつの巨浪が第11青函丸を持ち上げた。
新造船ならその程度の波にも耐えられるだけの能力はあった。 だが、戦時中に粗悪な材質で造られた戦標船の第11青函丸には
巨浪に耐えられるだけの力はもう残っていなかった。
そのまま錨を引きずったまま船首を持ち上げたときのピッチングはもはや第11青函丸の限界を超えていた。
次の瞬間、船首を虚空に突き上げ船尾の方からねじり込むように波間に沈んでいった。
まさに轟沈であった。
船内では浮き上がった貨車が緊締具を引きちぎり次々と船尾の方へ雪崩を打って押し寄せた。
アンカーに引っ張られ不均等に力が掛かった部分から船体は断末魔の叫びを上げ裂けていった。
物資の乏しい戦時中に粗悪な材料で建造された船には余りにも辛い波浪であった。
裂けた部分から海水がどっと流れ込み瞬く間に缶室、操機室を水没させた。
乗務員は退船の指示もなく、突然船体もろとも海中に引きずりこまれていった。
船体は3つに裂け、船首部分はまるで亡霊のように荒れ狂う波間に漂い、さらなる悲劇を生み出すこととなった。
■日高丸
青函連絡船日高丸は17時に補助汽船で乗務員を交代した後、航路東側で錨泊していたものの、強風に流され有川桟橋
に激突寸前だったため21時45分、揚錨完了し港外へ退避するべく全速で港口に向かった。このまま走航しながら船首を
風に立ててやり過ごす予定であった。しかし、強風に舵が思うように利かず横腹に風を受ける格好になり、しかも付近の十勝丸
から「沈没寸前、近寄るな」の無線電話を受けその場で投錨することを決断。
22時23分
防波堤灯台から西に1570m地点で錨を投下。 ところが右錨は運悪く2時間半前に沈没した第11青函丸の船体(船尾付近)に
纏絡(てんらく−絡まりもつれること)し、強風とうねりに流されたことも重なり日高丸は完全に操船能力を失った。
右舷に振り回され、右舷側のサイドスクリーン空気換気口からは大量の海水が浸入してきた。 船尾からの浸入より遙かに多い量
の海水が一気に右舷側になだれ込んだである。このまま右舷側に振り回されればやがてバランスを失い確実に沈没する。
しかもその時左舷前方、サーチライト投光器の明かりの中に赤腹を見せ漂流する沈船の姿があった。
こちらに流れてくるその姿を見、日高丸船長は即断した。「フルアスタン 後進全速!」「チェーン伸ばせ!!」
ストッパーが外され、錨庫から轟音と共に勢いよくチェーンが伸びていった。 チェーンは250m全部使い切り、後進をかけたため
何とか漂流する沈船を避けることが出来た。 だが、船内への波浪の浸水は続きその量はますます増加する様相であった。
沈没を防ぐためには港内へ戻るか、七重浜に乗り上げるか。どちらかしかなかった。このままチェーンを引きずったままでは動くこと
すら出来ない。
23時頃
船長はチェーンを切ることで抜錨を命じた。このときの日高丸にはもはや250mもの錨を巻き上げるだけの時間的余裕は残されて
いなかった。船匠は激しく揺れる船首の狭い錨鎖庫の中に入り、錨を切り離すべく渾身の力を込めてハンマーを振るった。
23時22分 船舶部長と桟橋長宛に「本船危険 手配コウ」と打電。
23時30分頃になると船の傾斜は40度を超え、もはや船橋に立っていることも出来ない状態となった。
23時32分 S.O.S.発信
23時35分 抜錨作業終了。
そしてこの死地を脱出するべく船長は「フルアヘッド 前進全速」を命じた。
しかし、テレグラフの針は微動だにしなかった。
時既に遅く、この時点で既に機関は使用不能となっていたのである。
23時40分 船体の傾斜は60度になり搭載貨車が横転。荷重の不均衡が一気に右舷側に働き船体も横転、沈没した。
■9月27日
0時57分
函館桟橋の運行司令室は連絡船の所在を確認するために無線で各船に呼びかけていた。
だが、第11青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸の4船からはいつまでも応答がなかった。
無線は沈黙したままであった。
■明ける夜
一方、陸上でも次々と入ってくる悲報をうけ、夜を徹しての作業が続いていた。
1954/9/26
22:29 洞爺丸ウナ第20号電「22時26分座礁セリ」の報を受け、直ちに青函局では救難本部を設置。
22:40 洞爺丸のSOSを受信
22:50 補助汽船出動。(波浪のため引き返す)
22:53 海上保安部に対し非常用無線500KCにより洞爺丸の遭難連絡を行った。
23:00 海上自衛隊に対し救助依頼の連絡員を派遣。(電話不通の為)
23:12 海上保安部より巡視船「おくしり」「りしり」の救助派遣の連絡。
23:15 函館飛行場管理人より遭難者救助の報。
23:30 鉄道公安職員の非常招集を行い、直ちに遭難現場へ派遣。(23:45頃到着)
23:45 鉄道病院救護班が局に到着。輸送用自動車の手配を相互自動車、函館バスに依頼。
9/27
0:15 陸上自衛隊に災害派遣要請。(1:50出動)
0:40 遭難者救助のため補助汽船全隻を出動。
2:00 日本サルベージに救助用ダイバーの派遣要請。
2:25 七重浜駅に救援列車到着。
4:50 補助汽船かつとし丸が七重浜に座礁、転覆している洞爺丸の姿を発見。
5:00 救助のため漁船数隻出動。
洞爺丸遭難直後から救助体制をひき、官民全力を挙げ夜を徹して救助に当たった。しかし、時間を追う毎に報告される犠
牲者の数はどんどん増えていく。
国鉄五稜郭工場では犠牲者の寝棺作成のため、工場内のありとあらゆる木材を使い、30名の職員により一睡もせずに
作り続けたが、1000名以上の犠牲者に対応する棺桶はすぐに出来ず、明け方にはついに工場内の木材全てを使い果たし、
苗穂や旭川工場から木材の手配を行うほどであった。
夜が明けても函館港内はうねりが高く、海上での救助作業は困難を極めた。救助のためのダイバー、作業船の招集も始まった。
この波浪の中、停泊中の残存連絡船は僚船の救助に向かったのである。 既に補助汽船により日高丸と十勝丸の乗員が救助
されており、両船の遭難沈没は確実であったため、前夜より消息不明の北見丸と第十一青函丸の行方の捜索を中心に行われた。
そして夜明け直後の5時39分、捜索中の第十二青函丸より「七重浜沖に赤腹を出した鉄船あり」の報告電報。続いて5時45分、
「北見丸、第十一青函丸投錨地点に、転覆し船首船底を海面に露出せる連絡船あり。なお、附近捜索中、船底きわめて
新しきため第十一青函丸と思われる」
この電文が第十一青函丸の沈没を決定づける報せとなった。
8月に二重底改修を施したばかりのため、船底のペンキが新しくそれが判断の決め手になったのである。
27日は青森にいて難を逃れた羊蹄丸が一往復の輸送を行った以外、他の船も周辺海域を巡航し、日没まで遭難者捜索を行った。
■遺された者達
一夜にして5隻の連絡船を失い、就航可能な船は僅か7隻。 28日から暫定的ながら青函航路の運航を再開した。
他に摩周丸は浦賀のドック入渠中。このため船員は他の船に乗務していて犠牲になった人もいる。
大雪丸はかろうじて沈没は免れたものの満身創痍の状態。緊急修理が施されることになった。しかしそれでも足りないため、
急遽係留中の元関釜連絡船・徳寿丸と元・稚泊航路の宗谷丸が就航。さらに一部の貨物については道南海運に輸送を委託
する事になった。
引き続き遭難者の捜索は続いていたが、事件当事者である国鉄の立場や世評を考慮し洞爺丸が最優先にされ、他の貨物
船職員の捜索・遺体揚収は後回しとなっていた。
10月になり、洞爺丸の船内遺体収容作業が一段落付いた頃、ようやく4隻の貨物船のダイバーによる遺体揚収作業が行われた。
しかし、第十一青函丸の乗組員生存者は0。漂着した遺体も僅か33体。57名が未だ行方不明のままであった。結局その後も揚収
できたのは僅か3体。あとは船体を引き揚げるしか遺体を捜す術は見つからなかった。
このころになると漂着遺体の数も減り始め、範囲も遠く三陸沖やえりも沖まで漂着する遺体が現れてきた。特に沖合で沈没した
北見丸や船体の損傷が著しい第11青函丸の乗組員の大半は未だに遺体が揚がっていない。
・10/25
東洋海事工業により浮揚工事が落札され、12/1から船体引き揚げ作業が行われることとなった。
・11/16
第十一青函丸乗組員遺族と東洋海事工業の共催で殉職職員の法要を行い、26日から本格的な作業が始まった。
・12/4
船首部を浮揚。
・12/8
有川桟橋5岸へ係留。
■昭和30年
・1955/1〜4
海底に散乱した客車、錨、汽罐を引き揚げ。
冬季の荒天のため中央部船体の引き上げは4/10に行われた。
・6/28
後部船体の引き揚げ。
・7/8〜24
船橋部の引き揚げ
・7/25
浮揚工事作業終了。
この日まで工事中の収容遺体、9体。
遺体揚収時 3体
漂着 33体
_________________
計 45体
行方不明 45名
_________________
合計 90名
生存 なし
■海難審判
1955/2/15
函館地方海難審判庁において洞爺丸他4隻の連絡船の海難審判が始まった。
5/12
第17回証人尋問。この日の前日に宇高連絡船「紫雲丸」が沈没。
7/30、8/6
有川桟橋において実地検査を行い検証用写真を撮影。
9/22
審判採決。
【主文】
「第十一青函丸についてはその発生原因が明らかではない」
二重底新設の工事により船体構造に強い不均衡が生じたかも知れない、と言う疑問点や缶室・車軸室から数名の乗組員
の遺体が発見された状況から、同所に一時に大量の浸水があった事も考えうるので転覆前に大亀裂を生じたのではないか、
と言う疑い等があるも、その発生原因を明らかにすることはできないものである、と裁決されたのであった。
■漂泊の時
その後、第十一青函丸以外の船については国鉄から第2審を請求したため、引き続き海難審判が続き、第2審も1審同様
の裁決だったことから、国鉄は裁決取り消しの訴えを東京高裁に提出し、昭和36年の最高裁判決まで審判は続いたのだった。
昭和36年4月20日 最高裁判所
主文
本件上告を棄却する。
この時、洞爺丸海難事件に関する国鉄の敗訴が決定した。
・国鉄の運行管理の不備 ・船体構造の欠陥 がこの海難の原因であったことを示すものであった。
■節目の年
2003年9月26日、1400人以上が犠牲になった「洞爺丸事故」から49周年を迎え、事故現場の函館湾に面した
北海道上磯町七重浜の慰霊碑前で五十回忌の法要が行われた。五十回忌という区切りの年と言うこともあり、遺族や
僧侶など関係者約400人が参加して犠牲者の冥福を祈った。
船員遺族会は1986年の三十三回忌で解散。遺族は年々高齢化し、遺族のほとんどが七十代、八十代となり、もはや
この悲劇を語り継ぐ語り部も年々減少している。やがてこの悲劇も歴史の一事項として忘れ去られていくのだろうか。
50年前のあの日、西の空に見た夕焼けは幻だったのだろうか。
偽りのテンペストに翻弄されたその結末は、悲しみだけだった。
幾多の命を飲み込んだ海は、今日も静かに佇んでいる
(完)
(「追跡 青函連絡船3,4,5」(北葉開発)より収録。 収録にあたり一部修正を入れています)